漫画・縄文の食卓

5000年前の青森三内丸山に暮らす縄文人が、津軽の方言で会話する漫画『縄文の食卓』

縄文の食卓

りんご生産高日本一の青森で、りんご生産が始まるまでのお話

このブログは縄文がテーマであるとともに、三内丸山遺跡がある青森津軽の文化もテーマにしています。青森といえばりんご、今回は「青森県のりんごの歴史」についてのお話です。

 

kazuyacoda
 

実は11月5日はりんごの日。りんご生産高日本一の青森県が、2001年(平成13年)に制定しました。「いい(11)りんご(5)」の語呂合わせから来ています。
国内のりんご生産量は、青森県が6割、長野県が2割、他山形、岩手など東北が中心に生産されています。


「りんごは外来の果物」という話は漠然と聞いていましたが、今日本で生産されているりんごは、いつから栽培が始まって家庭で食べる様になったのでしょうか。青森出身の僕自身が詳しく知らなかったため、少し調べてみました。

 

 

最初に日本にりんごが来たのは奈良時代(8世紀半ば頃)

中国の揚子江流域にあった原種が日本に渡って来たと考えられています。正確には「りんごに近い品種」で、小粒で美味しくなく、ほとんど食べられていなかったみたいです。
「りんご」の名前は、平安時代の漢和辞書『倭名類聚鈔』に林檎(りんこう)と記されていた言葉が、後に「りんご」と読まれるようになったそうです。

 

そして、今日本で食べられているりんごは西洋りんごと言われる分類になります。西洋りんごが日本に入って来たのは明治時代(明治8年)、今から144年前の話になります。

 

つまり、日本ではずいぶん長い間、りんごはマイナーな果物だったって事ですね。。。

 

 

江戸から明治に変わり、国を豊かにしようと外国から様々な物や技術が取り入れられました。その時、アメリカから西洋りんごの苗木が日本にやって来たのです。
ヨーロッパ系のりんごの苗木ももたらされましたが、雨の多い日本に馴染んだのは、アメリカ東部地域の方から来たものでした。

 

苗木は内務省から日本全国に配られましたが、青森県に配られたのは3本の苗木。これを育てたのが「菊池楯衛(きくちたてえ)」という元武士の県庁職員でした。

苗木は県庁の構内に植えられました。
楯衛は北海道に渡って新しい接木法を学んだり、りんごの研究グループを作って生産と普及に努めました。これが青森県のりんご生産の基盤となり、「りんごの開祖」と呼ばれるようになりました。
しかし、ここではまだりんごの実が成っていません。

 

 

明治10年になり、弘前市の殖産家「山野茂樹(やまのしげき)」が、自宅の屋敷内にあった畑で(現在の弘前大学医学部の敷地)3個のりんご生産に成功しました。

品種は「紅魁(べにさきがけ):原名アストランカン・ルージュ」。りんごはまだ珍しかったため、3個のうち1個が県庁に届けられたそうです。

ちなみに山野茂樹も旧弘前藩の元武士です。廃藩のあと養蚕、養豚などの事業をしていたみたいですが、りんごの苗を試験的に植えて、実をつけることに成功しています。

 

はぁぁぁ!昔の優秀な日本人です。。。


明治13年明治8年青森県庁構内に植えられた最初の苗木が育ち、これにも果実がみのりました。この後日本各地でリンゴの栽培が行われるようになり、生産が競われる状況になってゆきます。

 

 

初期のりんご生産は、主に青森と北海道で盛んに行われて来ました。鉄道の開通によって流通が盛んになり、明治25年には東京神田の問屋で取り扱いが始まりました。
日本独自の品種が栽培されるようになったのは昭和30年代からで、それまでは外来の品種が主に食べられて来ました。


しかし、その裏には農家の大変な苦労がありました。昔は農薬も乏しく、木の病気や害虫との戦いだったようです。袋がけなど様々な栽培の工夫が実を結び、現在に至っています。

 


りんご1個とっても、これだけ紆余曲折を経て家庭に届けられるようになったのです。

昔の人の努力と、今も美味しいりんごを作り続けている農家さんに、心からの敬意と感謝を。(^人^)

 


余談ですが、北海道の七飯町で日本初のリンゴ栽培をした人がいます。
この話は、続きとして別の機会に掘り下げてみたいと思います。


今回はこの辺で。

 


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参考:青森県公式HP、リンゴ大学、弘前りんご商業協同組合HP